かぞくとわたしについて3 : 2013年5月

アメリカにきたひとつの理由に家からはなれるというのがあった。
高校の担任の先生は、すこしだけ、我が家の事情をわかっていたので、
アメリカにいくのは賛成だよ、離れてみるのもいいかもしれない」
といってくれた。

アメリカにいって最初の3年は、まわりに
「自分の目標は、家族を面倒見れるようになること」と公言していたし、
だから最初の2年はバイトもしなかった。
家族が自慢できるほど、がんばって勉強することが大事なことだった。
いつあえなくなるかわからない家族に、親孝行したいとおもい、
しょっちゅうかえった。

 

わたしのあたまのなかで、こうなるだろうなぁーっていう予想がずれると
パニックになる。
これで、ずいぶんいろんなひとに迷惑かけてしまったかもしれない。
ダンスを5歳から15年やっていた。
そのときも、わたしはみんなにダンスすごいと褒められて
当然ダンサーになりたいといったときも、
応援してもらえると思っていたけれど、すこしちがっていた。
職業にするのは別物らしい。
「面倒見てね」ということばはいわれていたから、
ダンサーじゃだめだったのだろうか。
そのときは、家族をすててダンサーになるなんて考えもしなかった。
わたしのなかにある家族の呪縛はけっこう根深いってのが最近やっと自覚できつつある。
もちろん悪い親じゃないけど、ただわたしがいまから生きていくには
正直にいうと邪魔な存在になってきている。


わたしはこれからずっと他人の価値観のなかでいきていくのか。

ピースメーカーとしての自分に疲れた。
その役割を果たしていってなんか最後にあるのか。
多分ない。っていうかぜったいない。
祖父母、両親、叔母、わたしという微妙に特殊な家族の中で
わたしの役割はつねにピースメーカーだったとおもう。
母親は、おばあちゃんの姑の嫁いじめで悲しい思いをして、ぐれた時期もあった。
叔母は許されない恋をして、結局そのひとは離婚したけど、彼女と結婚しなかった。
おばあちゃんからするとわたしは最後の砦なんだろうなぁ。

わたしのほかに兄弟がいれば、すくなくともひとりでも
就職したりこどもうめば、
わたしへの無意識のプレッシャーもへるんだろうか。

「子供が幸せなら、親はそれでいいのよ」なんて
とんでもない詭弁だ。
もっともらしい理想論だけども違う。
本当は、「幸せならそれでいい、でもあわよくばね・・・・・・・」
続きがある。結婚してほしい、子供生んでほしい、
勉強してほしい、いいところに就職してほしい
無数の期待が隠れている。
おやの価値観が強固であればあるほどそうなる。
なぜかわたしはその期待にすべてこたえようとしてしまった。
子供は親とはまったくちがう人格をもった人間だということを
ついつい忘れがちになるけれど、それはいちばん忘れちゃいけないことなんだろうなぁ。