2013年4月

毎月のようにやってくる憂鬱なかんじ。
希死観ていうのかね。
涙が出そうなかんじ。
とつぜん動けないかんじ。
焦燥感と絶望感とか
なんかポエムっぽくなるね書くと。

穏やかな死にたい気持ちが一気に加速する。
動いたらだめだ。
頭の中は衝動的な行動でいっぱいだ。
まわりがちがってみえる。
いままで、もうなおったんじゃね?ていうくらいの
元気はいったいどこにいったんだろう。
すべてがわずらわしいし、
すべてがどうでもいい。

すこしだけどうでもよくなかった気持ちが
どっかに消え去った。
こっちのほうが本当の自分なような気がする。

いままでの人に説教できるような正しい自分とはおさらばした。
ずーっとこうやって生きる/死ぬほうがいいんじゃないかと思っていたのが
現実になってきた。
最初で最後に自分で選んだことになったら
いいなー。

どうでもいいけど意味もなく泣ける

かぞくとわたしについて3 : 2013年5月

アメリカにきたひとつの理由に家からはなれるというのがあった。
高校の担任の先生は、すこしだけ、我が家の事情をわかっていたので、
アメリカにいくのは賛成だよ、離れてみるのもいいかもしれない」
といってくれた。

アメリカにいって最初の3年は、まわりに
「自分の目標は、家族を面倒見れるようになること」と公言していたし、
だから最初の2年はバイトもしなかった。
家族が自慢できるほど、がんばって勉強することが大事なことだった。
いつあえなくなるかわからない家族に、親孝行したいとおもい、
しょっちゅうかえった。

 

わたしのあたまのなかで、こうなるだろうなぁーっていう予想がずれると
パニックになる。
これで、ずいぶんいろんなひとに迷惑かけてしまったかもしれない。
ダンスを5歳から15年やっていた。
そのときも、わたしはみんなにダンスすごいと褒められて
当然ダンサーになりたいといったときも、
応援してもらえると思っていたけれど、すこしちがっていた。
職業にするのは別物らしい。
「面倒見てね」ということばはいわれていたから、
ダンサーじゃだめだったのだろうか。
そのときは、家族をすててダンサーになるなんて考えもしなかった。
わたしのなかにある家族の呪縛はけっこう根深いってのが最近やっと自覚できつつある。
もちろん悪い親じゃないけど、ただわたしがいまから生きていくには
正直にいうと邪魔な存在になってきている。


わたしはこれからずっと他人の価値観のなかでいきていくのか。

ピースメーカーとしての自分に疲れた。
その役割を果たしていってなんか最後にあるのか。
多分ない。っていうかぜったいない。
祖父母、両親、叔母、わたしという微妙に特殊な家族の中で
わたしの役割はつねにピースメーカーだったとおもう。
母親は、おばあちゃんの姑の嫁いじめで悲しい思いをして、ぐれた時期もあった。
叔母は許されない恋をして、結局そのひとは離婚したけど、彼女と結婚しなかった。
おばあちゃんからするとわたしは最後の砦なんだろうなぁ。

わたしのほかに兄弟がいれば、すくなくともひとりでも
就職したりこどもうめば、
わたしへの無意識のプレッシャーもへるんだろうか。

「子供が幸せなら、親はそれでいいのよ」なんて
とんでもない詭弁だ。
もっともらしい理想論だけども違う。
本当は、「幸せならそれでいい、でもあわよくばね・・・・・・・」
続きがある。結婚してほしい、子供生んでほしい、
勉強してほしい、いいところに就職してほしい
無数の期待が隠れている。
おやの価値観が強固であればあるほどそうなる。
なぜかわたしはその期待にすべてこたえようとしてしまった。
子供は親とはまったくちがう人格をもった人間だということを
ついつい忘れがちになるけれど、それはいちばん忘れちゃいけないことなんだろうなぁ。

かぞくとわたしについて2 : 2013年5月

ふと、自分がやっていることが家族を満足させるためかもしれないとおもったのは
2012年の12月末から2週間ちょっと日本にかえったときのこと。
この2年ぶりの帰国でいろんなことがずれはじめているのに気づいた。
最近欝が治った叔母から「ボンゴレちゃんも人のためにいきるのはやめなさいね」
といわれ。
ほかの家族にはボンゴレももう25なのに、まわりは就職もして結婚もしてるでしょうといわれたり、
アメリカで就職してもいいよ、とかもいわれ。

私は、今まで、みんなが偉いとおもう自慢できるような
学生生活を送ってきたとずっとおもっていた。
英語はアメリカ人に間違われるほどうまくなったし、
自分に自信はないけれど、エッセイだってかけるし、成績だってよかった。
カリフォルニア州立大学編入もできた。
アメリカにきて2年ほどはずっと家族を養えるくらい稼げる人間になるといい
家族の面倒をみると、心に誓っていた。
アメリカで就職してもいいなんて絶対にうそだ。
したらしたで、裏切り者扱いだ、という気持ちがあった。
すべてがショックだった。
わたしはがんばってきたつもりだった。
それが、意味のなかったことだったのかもしれないとおもった。

ていうか、わたしものごっついがんばってね?
すごいがんばったよね?
もういいよね?
他人が私とくらべて苦しいとかつらいとか、しんどいとかがんばってるとかほんとどうでもいい。
わたしはがんばったので、もうがんばりたくないので、死のう!!!!ってなった。
なんか無駄に満足してしまった。
さらには、ていうか、わたしが失敗ってなったら家族かわいそすぎるだろ!
ということは家族がしんだらいいんだ!!!
家族死なないかなぁ。
でも家族が死ぬイベントなんて、強盗とか火事とか、わりと確立低い。
じゃあわたしがやるしかないのか・・??
毒殺かー。毒殺だったら、家族はわたしがころしたってしらずにしんでいくんだろうな。
だったらいいか。

で、結局、そこまで自分追い詰められてるんだったら、
死ねばいいか。と最初にもどっていった。

過去10年以上、「死にたい」というのはずっとあった。
「死にたい」と思うことは、みんなある経験だけど、
「死のう」と確信をもって思ったとき、
いままでとはまったく違う毎日になった。
感覚がぜんぜん違う。
別に死ぬことも生きることも美しいことでもないし
死んだらなんとかなるから死にたいんでもない。
でもいちばんの解決方法って結局それしかないとおもっていた。
いまでもすこしそう思ってる。

かぞくとわたしについて2013年5月

私の家は、母親、母親の彼氏、叔母、母方の祖父母とわたしの6人で住んでいる。
叔母は最近実家にまた戻ってきたので、
むかし私が使っていた部屋にすんでいる。

わたしはひとりっこで、いとこもいない。
ざっくりいうとこんなかんじの家庭で育った。

いい家庭だとおもう。厳しく育てられた。
過干渉ともいうけども。
ルールにしたがうって言う点ではすごく厳しかったとおもう。
食べ方や、日常のルール、礼儀はよく知っているつもり。
それに縛られているということも自覚している。

つい最近、風邪をひいた。
私の家では(多分多くの家では?)風邪をひいているときは
お風呂に絶対にはいってはいけなかった。
高校生になっても、卒業しても、
調子がもういいなとかおもっても、きれいにしたいなとおもっても
かたくなにだめだった。
友達と話しているときに、その人は別にお風呂に普通にはいっていたみたい。
それをきいて、ふと、
あれ?お風呂別にはいってもいっか。
ってなってシャワーをあびた。
ちいさなちいさなことだけれど、ルールに固執している自分がいる。
それをひとつづつ気づいていく必要があるんだろう。

いい家族だったとともに
私自身もいい子だったとおもう。
特別反抗期もなかった。
バイト代で、お菓子をかってかえって、晩御飯のあとにたべるように
用意したり、
お歳暮かったり。

みんなが
ボンゴレはいい子だなぁ」
ボンゴレはやさしい」
といってくれたのは、すなにはうけいれれなかったけれど、でもうれしかったし、
その期待にこたえようと思っていたのかもしれない。

まとまりないし、何回も同じことをかくかもしれないけど続く。
きっと続く。

全ての親がかつて子供であった 2

私の母親は、二人姉妹の長女で、妹は年子だった。

当時実家には、私の祖父の母親、私にとってはひいばあちゃんに当たる人と同居していた。

ありがちな昭和のパターン。

そしてそのパターンそのままに祖母はかなり嫁いびりを受けていたらしい。

雪の日に、鍵をかけられて家に入れなかったという話は私も聞いた。

母は大きくなるにつれ自分の母親が嫁いびりをされていること、

意地悪な親戚の存在、それについて特に何もしない父親に対しての怒りを募らせていた。

祖父は典型的な昭和の男という感じだったし、母や叔母や祖母に対して

高圧的だった。私にはそこまでではなかったけれど。

母親はフラストレーションを募らせて、すこしぐれた。

といっても硬派?なので、タクシーで鮨屋にいったり(高校生の時)

タバコをすったり、友達と頻繁にでたり。

それでも祖母はその友人たちがよく家にきていたといっていたので、

そこまでとんでもない関係ではなかったんだなと思います。

母親の高校の先生には特にお世話になったらしく、結婚式にも来てくれたらしい。

出会いの運がいいのは母も私も一緒だ。

母も、祖母は本当に母を理解してくれていたと言っていた。

だから母は祖母が大好きだったらしい。

きっと祖母はなぜ母がこんなにも暴れているのかという理由を理解していたんだと思う。

娘が自分のために怒ってくれることってきっとうれしかったはず。

しかし当の祖父は全然理解できずに、母と祖父の仲はどんどん悪くなっていった。

叔母は年子ということもあり、なにかと比べられていたと思う。

叔母のほうがいい子だとか、お姉ちゃんみたいになっちゃダメとか親戚が

ちょいちょい言っていたらしい。

それを聞いた叔母は、自分はしっかり文句言わずがんばらないといけないと

ひそかにしんどい思いをしていた。

のちに50代のときにうつ病を発症する原因となった。

叔母もまた祖母にわかってほしいのに、表現が静かだったから伝わらなかった。

母と叔母は、今も仲が悪い。

50年かけて募った思いを今からどうにかするに何十年かかるだろう。

私も20年かけて積み上げてきてしまったものを、何とかするのに12年かかった。

これからも完璧にはなくならないだろう。

でも今の時代には、ブログがあったり、本が合ったり、

ほかの人の意見を聞いたり。自分の中をアップデートする機会がある。

それが本当にラッキーなことだと思う。

相手は変わらないから、自分が変わるしかないという言葉が大嫌いだった。

自分がしんどいのにどうして、自分ばかりがさらに苦労して努力しなければいけないのかと、その言葉を聞くたびに腹がたった。

いまは少しその言葉を違って受け止められる。

自分の軸があるからこそのはなしだけれど、自分が心を開けば相手も開く場合もある。

何もならないかもしれない。でも自分が行動しなければ、何も変わりはしない。

そんな意味だと思う。

0.0001ミリの一歩でも、それは大きな変化だから。