全ての親がかつて子供であった 2

私の母親は、二人姉妹の長女で、妹は年子だった。

当時実家には、私の祖父の母親、私にとってはひいばあちゃんに当たる人と同居していた。

ありがちな昭和のパターン。

そしてそのパターンそのままに祖母はかなり嫁いびりを受けていたらしい。

雪の日に、鍵をかけられて家に入れなかったという話は私も聞いた。

母は大きくなるにつれ自分の母親が嫁いびりをされていること、

意地悪な親戚の存在、それについて特に何もしない父親に対しての怒りを募らせていた。

祖父は典型的な昭和の男という感じだったし、母や叔母や祖母に対して

高圧的だった。私にはそこまでではなかったけれど。

母親はフラストレーションを募らせて、すこしぐれた。

といっても硬派?なので、タクシーで鮨屋にいったり(高校生の時)

タバコをすったり、友達と頻繁にでたり。

それでも祖母はその友人たちがよく家にきていたといっていたので、

そこまでとんでもない関係ではなかったんだなと思います。

母親の高校の先生には特にお世話になったらしく、結婚式にも来てくれたらしい。

出会いの運がいいのは母も私も一緒だ。

母も、祖母は本当に母を理解してくれていたと言っていた。

だから母は祖母が大好きだったらしい。

きっと祖母はなぜ母がこんなにも暴れているのかという理由を理解していたんだと思う。

娘が自分のために怒ってくれることってきっとうれしかったはず。

しかし当の祖父は全然理解できずに、母と祖父の仲はどんどん悪くなっていった。

叔母は年子ということもあり、なにかと比べられていたと思う。

叔母のほうがいい子だとか、お姉ちゃんみたいになっちゃダメとか親戚が

ちょいちょい言っていたらしい。

それを聞いた叔母は、自分はしっかり文句言わずがんばらないといけないと

ひそかにしんどい思いをしていた。

のちに50代のときにうつ病を発症する原因となった。

叔母もまた祖母にわかってほしいのに、表現が静かだったから伝わらなかった。

母と叔母は、今も仲が悪い。

50年かけて募った思いを今からどうにかするに何十年かかるだろう。

私も20年かけて積み上げてきてしまったものを、何とかするのに12年かかった。

これからも完璧にはなくならないだろう。

でも今の時代には、ブログがあったり、本が合ったり、

ほかの人の意見を聞いたり。自分の中をアップデートする機会がある。

それが本当にラッキーなことだと思う。

相手は変わらないから、自分が変わるしかないという言葉が大嫌いだった。

自分がしんどいのにどうして、自分ばかりがさらに苦労して努力しなければいけないのかと、その言葉を聞くたびに腹がたった。

いまは少しその言葉を違って受け止められる。

自分の軸があるからこそのはなしだけれど、自分が心を開けば相手も開く場合もある。

何もならないかもしれない。でも自分が行動しなければ、何も変わりはしない。

そんな意味だと思う。

0.0001ミリの一歩でも、それは大きな変化だから。